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第31話
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あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した 第1017話
弥生は、自分が記憶を失う前はどんな性格で、こういうときにどう対処していたのかは分からない。でも、少なくとも今の自分は目の前の彼を叱らずにはいられなかった。今は無事だったれど、もしものことがあったら？万が一のことを考えるだけで胸がざわついた。瑛介もその深刻さを悟っていた。目覚めたばかりの弥生が感情を昂らせるのは良くないと判断し、これ以上の言い争いはやめて、すぐに頭を下げた。「俺が悪かった。もう二度としない。本当に反省してる。だから......怒らないでくれないか？」あまりに早い謝罪に、弥生は思わず目を瞬かせた。「すぐに反省するのは偉いわね。それとも私を怒らせたくないだけ？もしまた同じ状況になったら、結局繰り返すんじゃないの？」「誓うよ。次はない」二度と彼女を誰にも奪わせない。そう心に決めているから、嘘ではない。ここまで彼が謝罪し、約束までしたのに、それ以上追及すれば自分が理不尽に見えてしまう。弥生はそれ以上は言わなかった。「こんなに長く起きていて、どこか不調はないか？」瑛介が慎重に問いかけた。「ないわ」弥生は首を横に振った。本当は弘次のことを聞きたかった。でも、さっきその名前を口にしただけで瑛介の表情が険しくなったのを思い出し、結局その思いを胸の奥に押し込んだ。代わりに、別のことを尋ねた。「ねえ、ひとつ聞きたいことがあるの」その前置きに、瑛介の眉間からわずかな笑みが消える。「何だ？」また墨白の話かと疑ったのだろう。弥生は無意識にため息をつく。「変な想像しないで。......前に友作が言ってたの。私には二人の子どもがいるって。今、その子たちはどこにいるの？」まさか失ったはずの記憶の中から、彼女がその話題を出すとは思わなかった。瑛介は意外そうに瞬きをし、それから表情を和らげた。「心配するな。父さんが確認してくれた。母さんと一緒に田舎に行ってる」「田舎......」弥生の記憶にはその土地のイメージはない。それでも、彼の母親が一緒なら安心できる。「じゃあ、今は会えないのね？」胸が疼く。記憶を失ったことを、この瞬間だけは幸運に思った。だからこそ、子どもたちの姿に――強い好奇心を抱けるのだ。顔立ちは？声は？笑うとき、夢で見たように無邪気なのだろうか。弥生の眼差しが輝くの
あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した 第1016話
「どうして？」瑛介は久しぶりに会えた弥生を抱きしめたい衝動が強かった。心の欠落や罪悪感、不安を埋め合わせるには、四六時中でも腕の中に閉じ込めていたかった。「あなた、自分が怪我をしてるんでしょ？私を抱き上げたりしたら、傷口が開くわ」「そんなことない。君の体重くらいで裂けたりしない」「本当に？じゃあ、数日前に海外で傷口からあんなに血が出たのは、私を抱いたせいじゃなかったの？」「違う。あれはもともと傷が開いていたんだ」弥生に余計な罪悪感を与えないため、瑛介は即座に否定した。「......そう」弥生はじっと彼を見つめた。「じゃあつまり、傷が開いても、すぐに処置しなかったってことね」言葉に詰まった瑛介は、一瞬、自分が彼女のにはめられたように感じた。「......何のことだ？」と惚けてみせるが、弥生はふいに話題を変えるように問いかけた。「じゃあ、あのとき私たちをつけてきた黒い車に、あなたも乗ってたの？」ただの確認のような質問なのに、瑛介は思わず答えを考え込んだ。下手な返事はしたくなかった。「どうしたの？」弥生はさらに身を寄せる。「そんなに難しい質問？いたかいなかったか、ただそれだけでしょ？」傷口が痛んだときですら感じなかった苦しさが、今、彼女の問いの前では胸に重くのしかかった。「瑛介？」白い肌と黒髪の彼女が目の前に近づき、その吐息がかかった。瑛介の胸には、抑えるべき甘やかな衝動がまたも芽生えてしまった。先日は健司の登場に遮られた。煩わしさを覚えつつも、あのとき止められたことを少しだけ感謝もしていた。弥生の体調が万全でないのに、自分はそんなことを考えていたのだから。心のざわめきを押し殺し、彼はわざと話を逸らした。「いや、君はどうしてそんなに元気なんだ？検査の結果、問題なかったのか？」「話をそらさないで。あの車に、あなたは乗ってたの？」逃げ道はもうなかった。「......ああ、乗っていた」「乗っていたのに、あれだけの時間があったのに、どうして傷を処置しなかったの？」やっぱり責めるつもりかと瑛介は心の中で苦笑した。「また心配してくれているのか？でももう済んだことだろう。とにかく今、僕はこうして無事に君の前にいる。それで十分じゃないか」「つまり、今回はたまたま助かっただけで、次も同じ
あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した 第1015話
「宮崎さんが戻ってきたとき、怪我の状態は本当にひどかったんです。外傷だけじゃなく、内臓の損傷もあって......医師たちが救命処置にかけた時間はとても長かったのです。本当なら、目を覚ましたあとも二日間は経過観察が必要だったんですよ」そこまで話して、健司はどうしようもない表情で視線を落とした。「でも......僕たちには止められませんでした」口には出さなかったが、あのときの瑛介の目は血走っていて、誰が止めようとすれば、命懸けで掴みかかってくる凄みがあった。「彼女を救えないくらいなら、死んでもいい」そう言わんばかりの気迫に、皆、折れるしかなかったのだ。その話を聞いた弥生には、もう十分理解できた。彼が「大丈夫」と言っていたのは嘘なのだ。止めることのできない執念が、彼を無理に動かしていただけだった。どうりで、あのとき血の匂いがあれほど濃かったはずだ。弥生は思わず問い詰めた。「さっき、内傷って言ったよね？他にどんな怪我があるの？後遺症の心配は？」彼女がずっと恐れていたのは、後遺症のことだった。健司は口を結び、やや言葉を選んだ。「霧島さん、ご安心ください。あなたの記憶障害の方が、宮崎さんの傷よりよほど深刻です。宮崎さんは確かに無茶をして救出に向かいましたが、今は医師の診察を受けています。大事にはならないはずです」だが、弥生の表情にはまだ不安が残っている。それを見た健司は思わず言葉を継ぎかけた。「もしご心配なら」本来は「ご心配なら、宮崎さんが戻ってきたときに直接確かめればいい」と言うつもりだった。ところが弥生は遮ってしまった。「じゃあ、私から見に行ってもいい？」「えっ......」健司は一瞬、呆気に取られた。弥生は隣の医師に向き直った。「先生、私の検査はもう終わりますか？」医師は、従順で声も柔らかなこの女性に好感を抱いていた。「あと十分ほどです。それが終わっても宮崎さんが戻らなければ、見に行ってもいいでしょう」「ありがとうございます」弥生は素直にうなずき、残りの検査を続けた。十数分など短いものだ。瑛介は自分のために何日も付き添ってくれていたのだから。健司も少し考え直し、心の中で思った。むしろ霧島さんがご自身の目で、宮崎さんがどれだけ努力して救い出したかを知った方が...
あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した 第1014話
「そうだ、あの時も先生が処置してくれたからこそ、今こうしてちゃんと生きているんだ。だから心配するな。僕は君を守らなきゃいけないんだ」そう言われてみると確かにそうだと弥生は一旦は疑念を収めた。でも心の中には、やはり弘次のことが引っかかっていた。「その......私がここを出てきてから、弘次はどうなったの？」彼の名を弥生が自分から口にした瞬間、瑛介の表情が少し硬くなった。「なぜそんなことを聞く？......まさか、彼のことを心配してるのか？」そこに混じる嫉妬の色は、弥生の耳にもはっきり届いた。彼女は胸の内で苦笑した。記憶はなくても、瑛介の独占欲は、もう分かる。自分が弘次のことを持ち出せば、不快になるのは当然だろう。でも、触れずにはいられない問題もある。「心配より......今後どうするつもりなのか確認したかっただけよ」「......やはり、記憶を失っても、彼を見捨てることはできないんだな」一層嫉妬を滲ませる声音に、弥生は言葉を失った。「だが弥生、僕自身の傷ならまだいい。昔の友情を断ち切った代償だと思えばいい。だが、君が受けた傷や痛み、僕は絶対に許さない」彼にしては控えめに言ったつもりだろう。だが弥生には、その声の底に潜む剣呑さが感じ取れた。唇を開きかけたその時、外から足音が響いた。健司が医者を連れてやって来たのだ。「先生がいらっしゃいました」瑛介の表情は一瞬で元の落ち着きを取り戻し、弥生の後頭部をそっと撫でた。「安心して検査を受けろ。僕は少し外す。終わったらすぐ戻る」弥生は、彼が何をしに行くつもりかすぐに察した。「......分かったわ」瑛介は出て行く前、健司に命じた。「彼女を頼む。僕が戻るまで、命に代えても守れ」健司は胸を張った。「ご安心ください。命にかけても、霧島さんを守ります」その真剣さに瑛介は疑いを抱かず、軽く頷いた。「いいか、報酬を上乗せしておく」「ありがとうございます！」瑛介が立ち去り、健司が部屋の中で警護に就いた。検査が始まり、医者がいくつも質問を重ねた。弥生は素直に答え、とても協力的だった。後半には医者の質問も少なくなり、静かな空気が流れた。弥生はふと横に立つ健司を見上げ、さりげなく口を開いた。「君......」言いよどむ彼女の
あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した 第1013話
弘次のことを心の中でさんざん罵ったあと、健司は短く言い捨てた。「......はい、医者を呼んできます」そう言って部屋を出ていった。弥生はそのまま彼が行ってしまったと思ったが、すぐに健司は戻ってきた。ただし今回は部屋に入らず、入口に立ったまま瑛介を呼んだ。瑛介が振り返ると、彼は口を開きかけては閉じるような表情をしていた。瑛介は仕方なく弥生に向き直り、声をかけた。「......すぐ戻る」布団に潜っていた弥生は、小さく頷いた。廊下に出ると、健司は瑛介に「もっと離れた場所で話そう」と手振りで示した。その仕草に瑛介は眉をひそめた。「言いたいことがあるならここで言え。そんなに距離を取る必要があるのか？」健司は後ろを振り返り、声を落とした。「......やっぱり少し離れましょう。ここで話すと、霧島さんに聞かれてしまうかもしれません」苛立ちが顔に出た。やっと彼女を取り戻したのに、今さら自分に距離を取れというのか。もしその隙にまた何か起きたら、誰が責任を取る？瑛介の表情が冷たくなった。「聞かせたくないなら、声を落とせ。それでも無理なら文字で書け」健司はそれ以上逆らえず、声を潜めて言った。「......もうずっと霧島さんに付きっきりですが、ご自分の傷の手当てはどうするんです？医者はずっと控えていますよ。傷口が悪化して炎症でも起きたら大事です」瑛介は一瞬、虚を突かれたように黙った。自分の怪我など、すっかり頭から抜けていた。しばしの沈黙のあと、低く答えた。「分かってる。あとで行く」健司は納得しないようだ。「その言葉は何度も聞きました。でも一度も行ってません。先生は『これ以上放置するなら、自分から行く』とまで言ってます。ですから、霧島さんの目の前で手当を受けるか、それともご自身で先生のところに行くか。どちらかを選んでください」数秒の沈黙ののち、瑛介は短く言った。「......彼女の主治医を、ここへ呼べ」健司はその意図を理解し、頷いて去っていった。瑛介が再び部屋に戻ると、弥生は布団をかぶったまま、顔だけを出していた。その姿に、彼は思わず笑みを浮かべた。近寄って彼女を起こし上がらせると、弥生が問いかけた。「さっき二人で内緒話してたでしょ？......私に隠してる
あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した 第1012話
「......体はもう大丈夫なの？」弥生は彼をまっすぐ見つめた。「目を覚ましたばかりで、こんな危険なことをして。医者に許可は取ったの？」自分を気遣う言葉に、瑛介の唇がふっと上がった。「もちろん医者に相談した。許可を得てから出てきたんだ」弥生は一瞬沈黙し、やがて呆れたように顔をしかめた。「......私を馬鹿にしているの？ごまかして、面白い？」その一言に、瑛介の表情がたちまち変わった。「怒ったのか？」弥生は顔をそらした。「すまない。ただ心配させたくなかったんだ」瑛介は必死に取り繕おうとした。まるで「許してくれなければ、今すぐ切腹する」と言わんばかりの様子に、弥生は思わず心が揺れた。彼が無茶をしたのは事実だ。でも、それは彼女を助けるためだった。それを思えば、怒り続ける資格など自分にはない。弥生はゆっくりと彼を見返した。「......分かってるでしょう？私が怒るとしたら、それは全部、あなたのことを心配しているからよ」「分かってる」瑛介の瞳が柔らかくなり、すぐ傍へ身を寄せた。自然に腕を回し、彼女を引き寄せた。弥生の胸がどくりと跳ねるが、不思議と抗う気持ちはなく、半ば委ねるようにその胸に身を預けた。「全部分かってる。君が怒っても、それは僕を気にかけているからだ」彼の匂いに包まれ、弥生の手は無意識に動き、彼の肩にかかり、そのまま首に回った。その仕草に、瑛介は胸を揺さぶられ、顔を伏せ、唇を寄せようとした。ちょうどその時、廊下から足音が近づいてきた。弥生の身体がびくりと硬直し、慌てて腕を放し、瑛介を押しのけて布団へ潜り込んだ。動きを半ばで止められた瑛介は、そこで固まってしまった。「......霧島さんは、目を覚まされたんですか？」健司が入ってくると、彼は目にした光景に一瞬ぽかんとした。布団に潜っていた弥生が小さく咳払いをし、手をそっと上げた。「......私のこと？」「目を覚まされたんですね！」健司の顔がぱっと明るくなった。「よかった......いつ目を覚まされるのか心配でした。どこか具合の悪いところはありませんか？医者も、何か不調があればすぐに検査するようにと言っていました」「大丈夫。特に何もないわ」そのやり取りを聞きながら、瑛介が口を開いた。「
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